加藤文彦元代表幹事からの御挨拶

東海脊椎脊髄病研究会ホームページ立ち上げによせて-継承の重要性-

中部労災病院 名誉院長
中部労災看護専門学校 校長
名古屋共立病院・脊椎脊髄センター
加藤文彦

 当研究会の歴史にも記載されていますが,当研究会は兼松弘先生(豊橋市民病院),田島宝先生(静岡済生会病院),中島昭夫先生(中部労災病院),前田博司先生(名古屋大),室捷之先生(高山久美愛病院),吉田徹先生(刈谷トヨタ病院)(注:括弧内はいずれも当時)の6名の先生方が発起人となって,昭和46(1971)年9月18日に第1回が開催されました.会の名称も「東海脊椎外科懇話会」であり,当初は症例検討会+講演の形式で年1回の開催でしたが,昭和51(1976)年から年2回となりました.昭和62(1987)年3月に室捷之先生のご尽力により,雑誌「東海脊椎外科」の第1巻が創刊されました.同年3月28日の第27回学術集会から演題発表が加わり,その後は次第に症例検討がなくなって,平成元(1989)年4月22日の第31回から現在の開催形式(演題発表+講演)となりました.会の名称も昭和63(1988)年4月16日の第29回から「東海脊椎外科研究会」となり,平成18(2006)年11月11日の第66回から現在の「東海脊椎脊髄病研究会」と変わって参りました.雑誌「東海脊椎外科」の表紙も平成19(2007)年4月発刊の第21巻から現在のものに変わりました.そしてご存じの如く,平成22(2010)年5月に統合誌「Journal of Spine Research」の当会特集号が発刊され,以後毎年1巻ずつ発刊されております.当会の先生方も若い方が増えましたので,まずは手元にあります第1巻からの雑誌「東海脊椎外科」をめくって,ホームページ立ち上げを迎えた当会の50年間の歩みを大まかに振り返ってみました.

 東海地方の整形外科医師ならば,皆さん良くご存じの事と思いますが,現在の東海地方の研究会で開催される学術集会で最も参加者の多い研究会は当研究会です.次に参加者が多い研究会は東海整形外科外傷研究会です.東海整形外科外傷研究会は井上四郎先生,大橋俊郎先生,錦見純三先生,室捷之先生の4名の先生方が発起人となって昭和61(1986)年に発足しました.東海整形外科外傷研究会の雑誌も当研究会と同様に室捷之先生のご尽力により発刊されています.現在の東海地方で最も参加者の多い2つの研究会を立ち上げ,運営されてみえた室捷之先生のご努力と情熱には今更ながら頭が下がります.更に室捷之先生は雑誌「東海脊椎外科」の【せぼねの日本文化史】をお読み頂ければ判りますが,80歳代半ばを過ぎても相変わらず頭脳明晰で,変わらぬ向学心と探究心,行動力を保持してみえます.私も年齢的には高齢者の仲間入りをしておりますが,室捷之先生の能力の僅かでも良いから継承できるように努力をしていきたいものだと常々考えております.

 最後に2017年の統合誌「Journal of Spine Research」Vol.8 No.4 東海脊椎脊髄病研究会特集号の編集後記と同様の内容を記載させて頂きます.私事で恐縮ですが,私は納屋橋の近くで小中学校時代を過ごしました.その頃から利用している老舗料理店が名古屋市中村区の納屋橋のすぐ南西にあります.他の地方からのお客様の御接待でよく利用し,古典的「名古屋飯」である「ひきずり(鶏肉のすき焼き)」を出してもらっています.この店は文政11(1828)年から昭和19(1944)年まで,納屋橋の南西にあった「得月楼」という料亭から明治32(1899)年に暖簾分けした店です.そして,料亭「得月楼」の経営者の血統を嗣がれた御子孫は現在,海部郡蟹江町で「漬け物製造業」を営んでみえます.一方,「得月楼」の建物は料理に関して「得月楼」とは全く繋がりのない鳥料理店に受け継がれました.そして,鳥料理店廃業後の建物について河村たかし名古屋市長と散々もめたあげく(市長は歴史的建造物として保存を要望したのに対して,土地の所有者はマンションへの建て替えを主張),平成26(2014)年に火事で焼失しました.しかしながら嬉しいことに,「得月楼」の料理は前述の店ともう一つの暖簾分けした店に受け継がれ,今も名古屋の街で脈々と続いています.「つぐ」という言葉に漢字を当てると「嗣ぐ」か「継ぐ」になります.「嗣ぐ」は血統が繋がった場合であり,「子孫を授かる」ことが必須条件です.一方,「継ぐ」は物品や教え・学問・技術などが繋がった場合であり,社会や組織の多くはこの形で繋がっていきます.人の世は色々なものを継承して,過去から未来へ繋がっていきます.当研究会においても,色々な事柄が「得月楼」の料理の如く,若い先生方に次々と旨く継承されて繋がっていくことを念じてやみません.